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死刑制度について

LEICA SUMMICRON-M f2/50mm 沈胴

死刑についてどう考えるかというテーマの記事を朝日新聞で読んだ。先進国で死刑制度のあって、実際に執行している国はアメリカくらい。先進国でなくても数えるくらいしかない。
日本人でも過半数の人は死刑に賛成なのだろう、朝日新聞でも実名で「迷いなく死刑は存続すべきだと思う。大切な人の命を残虐に奪ったものは死をもって償うしかない、死刑廃止を訴える人はきれいごとでしかない」っといった意見が掲載されていた。

以前にアメリカの死刑囚を取材したドキュメンタリー番組を見たが、そういった犯罪を起こす人のほとんどが愛情を受けて育っていない、ということ。あとアメリカの話であるが、銃さえなければ殺人を犯さなかった事例は多いのではないかという印象を持った。犯罪と貧困やドラッグが大きく関連していることは間違いないだろう。日本の場合長らく国民総中流と言われたいただけに全て本人の責任にしてしまう、といった風潮は明らかにあるだろう。

人間という一つの種ということを考えると、種の保存のために多種多様な人格があって当然だろう。多分すべての人が穏やかで、追い詰められても衝動的な行動をとらないとしたら種の保存という意味では失敗なのではないだろうか。

冒頭の人の意見は、言い換えれば、重い犯罪(その方が残虐だと思うような)を犯した人は殺してしまうのが一番いい、と言っているのと同じである。
全ての人が人格に何らかの問題を抱えているはず。育った環境が劣悪であれば問題はもっと深刻なはずだ。死刑で殺してしまえばいいというのは、感情的になって根本的な人間としてのあり方や、社会の抱える問題を考えないようにしているだけだろう。

死刑囚にしても自分たちと同じ人間であって、社会に翻弄されてしまっただけの人たちではなかろうか?ましてや日本の裁判制度の有罪率を考えると、死刑制度など暴力でしかないと思う。

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街のポートレート Saturday September 24 2016

α7 LEICA SUMMICRON-M f2/50mm 沈胴

α7 LEICA SUMMICRON-M f2/50mm 沈胴

先日の朝日新聞で日本の英語教育について小学校から教えることに反対する大学教授の意見を読んだ。彼によれば簡単に言うと英語教育を早くから行うと、日本の社会が英語偏重化して、英語の苦手な人にとっては非常に不利だ、日本の社会はなかなか変わらないが、いったん変わってしまうと取り返しがつかない、といった内容だった。

もともと日本の外国語教育は中国語を習うためにあったんではないかと思う。直接人とコミュニケーションをとるためというよりは、読み書きを勉強して当時先を行っていた中国文化を取り入れることや、文書でのやり取りがメインだったのではないか。非常に古い外国語教育を基にした今の英語教育があるように思えてならない。外国語を勉強することによって、日本語の習得が遅れるとか(全ての授業を英語だけで行うといっているのではなくて英語の授業を取り入れるといっているだけだ)、悪い影響があるといったことは科学的に否定されているし、二か国語を普段から使っている人は、一つの物事を多方面から考えたり、いくつかの物事を同時進行することに優れていたり、脳梗塞などからも回復が早いといわれている。

まして英語偏重の社会になるというが、現在の受験勉強偏重の社会のほうが問題で、まず変えるべきだと思う。社会人になってほとんど役にも立たないことを数年も長時間勉強することは非常に時間の無駄だ。英語だけでもまともに勉強すれば、ビジネスチャンスなどいくらでもあるし、無数の英語のウェブサイトから情報を得ることなど、利点はいくらでもある。

その大学教授は英語ができなければ、マイナーな言語ができても意味のない社会になるというが、普通に考えて言語というものは、英語は全くだめだけど中国語は非常に優秀、などは考えにくい。なぜならどの言葉でも習得する過程は一緒だし、一つ言語を習得できれば次の言語の習得時間はとても短くなる。言語を勉強したことがある人には常識だろう。

一番気になったのは、こんなに保守的な人がどこかの団体の代表などではなくて、社会に対して公平であるべき大学で物事を教えているということだ。どこの大学かは忘れたが、その大学自体が保守的なのかもしれないが、外国人の教授がほとんどいない日本の大学という有様が、現在の日本社会を象徴しているのではないだろうか。

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